azao_olc’s blog

あざおOLCクラブは、ワールドワイドに活動する匿名のオリエンテーリング集団です。

Art, Science and Philosophy

小さい頃から世界の構造に興味があった。それは世界を統べる法則を知ること、もしくは世界を記述する言語を知ることとも言える。

特に複雑なシステムが現れる過程は神秘的である。例えば生物種の多様さ、その形質の多彩さにはいつも驚かされるが、同時にこの無数の生物種はたった一種の単細胞生物を先祖とし、数億年、数十億年という途方もない時間をかけて現れて(そして無数の種が失われて)きた。似たような現象は生物の個体の形成プロセスにも見出だすことが出来る。有性生殖を行う多細胞生物はたった一つの受精卵が分裂し、この過程を繰り返すことで数十億個の細胞から構成される一つの個体が作られる(専門用語で発生という)。この細胞たちは発生の過程で徐々に特定の機能に特化してゆき、ゲノム、遺伝子発現、細胞間コミュニケーション、シグナル伝達といった多様な階層の内外で交わされる入力と出力が絡み合った複雑精緻な生命システムが作られる。このシステムが動作するおかげで、僕たちは動き、思い、生きる。

どれだけ複雑なシステムであっても、そこには構成単位が存在し、そこに付与された性質や構成単位間の相互作用によってシステムが構築される。こうした性質は何も生命にのみ見られるようものではなく、例えば建築様式からも要素と総体という構造が見て取れる。

Barbican centre, London, UK

そして、類似した要素であってもそれが繰り返され、調和することでその総体は個々の要素とは全く異なる有機的な質感を与える。これは建築様式でもそうだし、音楽でも何度も試されてきた。

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この”繰り返し”という事象は、複雑なシステムが自律的に形成される過程を考える上で不可欠なものに思えてならない。全く新しい要素(ノード)を一から作り出すよりも、既存のノードを複製し、そこに改変を加えていくことで機能を発揮させる方が安上がりだからだ。その実、生物のゲノム配列は数十億組の塩基対で構成され、そこにコードされた遺伝子たちの働きによって細胞の機能は発揮されるが、そのゲノムは半分近くが太古の昔に感染したウイルス由来の配列の繰り返しで占められるとともに、ゲノム中の一部の配列が大量に重複した領域も多く見られる。こうした領域では、配列の類似性が美しい幾何学パターンを形成する。

マウスのY染色体地図。格子状のパターンは全て同一配列の重複。Soh et al. 2014

さらに、「繰り返しが繰り返される」ことでそこに入れ子構造、すなわち再帰性が生まれる。再帰性の帰結としての階層構造は進化系統樹、細胞発生系譜樹、言語体系といったさまざまなシステムに見受けられるが、これはひとえに繰り返しという操作のコストの低さに起因するのではないだろうか。

ここで矛盾するようだが、繰り返しがシステム形成の骨格となる一方で、完璧な反復というのは存在しない。細胞のゲノム複製は多数のエラー補正機能を実装することで極めて高い精度で行われるが、それでも確率的に誤りが発生する。この誤りの積み重ねがやがて生物個体の特性として顕れ、同一種のコピーだったはずの二つの個体は別々の道を辿り始め、最終的に異なる生物種として定義されるようになる。現代芸術家Lee Ufanの作品を見ると、いつも進化のプロセスについて考えさせられる。インクが切れるまで等間隔に置かれた筆跡は一度として同じにはならない。繰り返される要素に与えられる揺らぎが後戻りのできない差を作り出す。

Lee Ufan (Hamburger Bahnhof, Berlin, Germany)

生命システムや生物種の形成過程を”神”に丸ごと帰することは容易だ。しかしながら、人類は宗教の発展と並行してより普遍的な世界の記述の仕方を探し求めてきた(あるいは宗教自体が一つの記述の方法だったとも言える)。最も強烈な理論の一つはダーウィン自然選択説だろう。自然選択説は子孫の個体群の中でより環境に適応した系統が選抜されて次世代へと受け継がれていくという進化理論で、この理論は多様な特性を持った生物種の作られる過程を見事に説明するとともに、これらが全知全能の設計者(あるいは神)の存在なしに自律的に現れうることを示唆した(コペルニクス的転回とはまさにこのことだろう)。

科学、思想の歴史を振り返ると、人類にとっては幻滅の連続であったように思える。古代ギリシャの哲学者は絶対的な本質、イデアの存在を唱え、事象はこのイデア、もしくは基本原理の写像として目前に与えられるものだとした(洞窟のメタファー)。科学研究のモチベーションは元々この基本原理の探索であったはずだ。しかしながら、古代人が思い描いていた強固な因果律と美しい基本原理は科学の進展とともに瓦解し、むしろ物体の座標は確率論的にしか規定できず、三次元だと思われていた空間は捻じ曲がり、進化は総当たりと選抜の力技であることが次々と示されてきた。そして、思想も(これに先んじていたかは不明だが)同期するように世界の神秘性を捨て始め、相対化、複雑性といったポストモダンの道へと進んでいく。”神は死んだ”という有名な言葉は文字通りキリスト教的価値観の崩壊を意図したものであっただろうが、自分には基礎科学の方向性の転換を予言していたように思えてならない。

境界というものの重要性も考えさせられる。周りを見渡すと、人は境界を作り出すものに価値を見出すようだ。例えば袋は単なる湾曲した平面だが、物体を袋に入れて手に提げることで物体は境界の自分側に割り当てられる。あるいは住居、衣服もそうだろう。いずれも外界と自分を分ける機能を持つ。カントが言うように、境界というのは先天的に世界に存在しているものではなく、人間の認知機能の限界に沿うように人間が自ら割り当てたものだ。しかしながら、皮肉にも人間自身が世界の複雑性、連続性に気づいてしまっている。生物種は一定の共有された特徴量から恣意的に割り当てられたものであり、実際のところは個体ごと、世代ごとにゲノムが変異し、混ざり合い、分岐していく。進化は絶え間ない連続的なプロセスであり、種と種を分ける明確な壁は存在しない。同様に、この境界線に依存していた価値観、例えば国籍、人種、国家観は境界が滲むにつれ急速に溶け合い、相対化していく。

生命科学の分野では、単なる現象の記述、演繹と外挿に終始していた方法論から一歩踏み出し、機械学習を組み合わせることでより予測可能な生命システムのモデル化が取り組まれている。例えばゲノム配列から配列修飾や転写活性を予測することは一定の成功を収めているが、多様かつ複雑な階層を組み合わせてより本物の細胞に近いモデル構築に取り組んだ際も同様の成功が期待できるのか、あるいは膨大なパラメータの海で途方に暮れることになるのか(あるいは、必然的な不確定性が存在することによって不可能なのか)については分からない。

畢竟、科学と芸術は世界を記述するための方法であり、二つは世界の見方である哲学を通して接続される。そして、安心して身を預けられる価値観が存在しない現代において、自身の哲学を持つことが大事ではないだろうか。進化する大規模言語モデルは尤もらしい答えを返し、書店で平積みされているN=1の自己啓発本よりは当てにできるかもしれないが、それでも僕たち自身の哲学を組み立ててはくれない。

 

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